『ワールド・オブ・ライズ』

 リドリー・スコット監督の最新作『ワールド・オブ・ライズ』を観てきた。

 この人の作品、それとは知らないうちにけっこう観ている。『エイリアン』『キングダム・オブ・ヘヴン』『アメリカン・ギャングスター』『ハンニバル』あたり。有名な『ブレードランナー』と『グラディエーター』はまだ観てないのだけれど。『ブレードランナー』は、高名なSF評論家のゼミ生として、一刻も早く観たいなあと思っている。

 さてそんな、代表作も見てない人間が『ワールド・オブ・ライズ』について何を書くかだが、率直な感想として思うのは「戦いがカタい、めっちゃカタい」ということだ。これが僕の見出したリドリー・スコット監督の特徴である。一切のユーモアが排除された戦い。ユーモアだけじゃないな、描かれている「戦い」についての文脈をすべて忘れさせてしまうような、ほかのヤワな要素を全部排除してしまうような、「カタい」戦いを、監督は描くのである。正義なんかどこにもなくて、悪もどこにもいなくて、ただひたすら人間が生きるか死ぬかするだけ、観客はどっちにも感情移入しようがない、そんな「カタさ」である。

 『ワールド・オブ・ライズ』はCIAと中東テロリストの戦いを、フィクションと事実のスレスレの線で描いた作品である。僕たちははっきりと思い出させられるのである。テロとアメリカの戦いっていったって、他の戦いにはない特殊な正義感情とか、歪んだ宗教意識があるわけじゃないってことを。現代のテロとの戦いだって、あくまでも人類が営んできたあまたの戦いのうちのひとつに過ぎないんだってことを。冷徹な頭脳戦があり、信頼があって裏切りがある、普遍的な人間の本質がそこにあるっていうことを。

 ヘンな意味でいろんな「聖性」をはらんでしまった対テロ戦争を、ひとつの普通の戦争というところにリセットする効果を持っていたんじゃないかと思う。対テロ戦争も、宗教的な嘆きを抜きに、スリリングな情報戦としてハラハラすることができる、というのはもしかしたら希望なのかもしれない。

 それにしてもディカプリオが、このカタい映画によく合う硬派な役者になってる。『タイタニック』のころの、甘くとろけるような風貌はもはやどこにもない。なんか「ディカプリオ」という名前も全然似合ってないように思える。純粋に年をとったということかもしれないけど、味のある役者になったんだと思う。