いっしょに寝てほしい

 夜ひとりで寝るのって怖いですよね! というわけで今日は、「だれか僕といっしょに寝てほしい」という話をしたいと思います。

なぜひとりで寝るのが怖いのか

 正確に言うと怖いのは中途覚醒です。夜中にふと目が覚めることが恐ろしいのです。それも時間帯によるものが大きくて、たとえば12時に寝るとして、4時に目が覚めるのは全然平気です。4時だとなんか、もう朝だって感じだし、それに4時間も寝たんだから中途覚醒だとかなんだとか言ってんじゃねえよボケナス、という気にもなります。

 小学生のころ、一時期「朝ファミ」がマイブームでした。これは「朝早く起きてファミコンをやる」の略です。これをやると、朝から頭と体にちょうどいい具合の刺激を与えるので、一日中冴えた感じですごすことができます。そのため4時くらいに起きていました。だから今でも、朝の4時というのは起きてゲームをやる時間だというのが自分の体のどこかに残っていて、それで4時に目が覚めるのは怖くないんだと思います。

 でも2時とか3時とかに目が覚めるとなると、これはとてつもなく恐ろしい。なぜかというと、とても単純な話で、3時というのはおばけの出る時間だと、幼いころ大人に執拗に教え込まれたからなんですね。たぶん。そういうわけで3時とかに目が覚めちゃうと、言い知れぬ不安におそわれて、やばいどうしようって感じになって、ついつい「ひとりかくれんぼ」をやってしまったりして、余計まずいことになる。これは良くないですね。

 ですから、そういうのを防止するためにも、いっしょに寝てくれる人が必要です。

閨事の文化

 さて「いっしょに寝てほしい」とかなんとか言うと、「変態、ボケ、すれっからし」などという罵声がどこからともなく聞こえてきます。我々は、「いっしょに寝る=セックス」という文化圏に暮らしていますから、無理もないことです。昔の言葉にも「閨事」とかいうのがあって、要するに寝室ですることといったらアレないでしょー、みたいなニュアンスですね。あと欧米でも、ジョン・レノンが行った公開セックスの名称が「ベッド・イン」であったことからもわかりますが、そういうことになっているみたいですね。

 でも考えてみたら平安時代の庶民の家とか、江戸時代の長屋とかはめっちゃメチャ狭いんで、みんなで身を寄せ合って寝てたはずなんです。たぶん。詰め詰めの空間で親子夫婦嫁姑で足けっぽりあいながら寝てたはずなんです。そういうところで「いっしょに寝るということはつまりセックスすることなのだよ」と説いてみたりしたら、想像するのもおぞましい大乱交がはじまります。これは良くない。

御起立!

 そういうことを考えてみると、「寝る」こととセックスの一体化、ということについては、もっといろいろ考えてみた方が良さそうです。アメリカ映画なんかを観ていると、主人公とヒロインが、物陰に隠れて立ったままセックスしているという描写がしょっちゅうなされます。エミネムが出演した『8 mile』にもそんなシーンがありました。あれは貧しくて家も狭くてラブホに行く余裕もないので、(まあ、若くて発情してガマンできなかった、というのもあるのでしょうが)ああするしかないということですが、時間的・空間的・精神的・精子的余裕がどんどんなくなってきている昨今の日本においても、立ったままのセックス、というのは流行るようになるかもしれません。セックスにベッドもしくはふとんが必要な時代がいつまでも続くとは限りません。

 そうすると、一概に寝ることとセックスすることとは結びつかなくなるかもしれないのです。

愛情表現と性欲処理のあいだ

 先日、僕は経済学部の友人と、渋谷の居酒屋で飲んでおりました。話が途切れたので、
「明日はなんか予定あるの?」
 とありふれた質問をしてみたところ、彼が

「午前の10時に彼女とラブホ行って、セックスするんだ」

 と答えたのでちょっとびっくりしました。

「朝から? ラブホ行くだけ? 他にはなにもしないの?」
「そう、ただラブホ行って、やるだけ」
「なんで、わざわざそんなことするの?」
「そうやって愛情表現していかなきゃいけないから、かな」
 
 そんな感じの会話を交わしたような気がします。愛について真剣に考えたことのない僕は、かなり戸惑いました。朝からセックスしなきゃ表現できない愛情ってなんだろう? 夜に激しく愛し合って、そのまま寝て朝起きたら余勢でもう一回、というのはよくある流れなんでしょうけど、そういった文脈を完全に切り取った上での早朝セックスとなるとよくわかりません。同棲してるならともかく、わざわざ街まで出向かねばならないとなると、自分なら途方もなく面倒くさく感じるはずです。だって、やった後は普通寝たいですよね? 平日の午前中やっちゃったら、その後もずっと起きてなきゃいけないんですよ。

 皆さんお分かりだと思いますが、この友人は決して、精力絶倫で手当たり次第の女と寝て何人も妊娠させて泣かせてきた、というようなタイプではありません。僕なんかの友人をやってるくらいですから、いわゆる草食系男子で、朝からラブホに行くのも、彼女がそれを愛情表現として望むから、という感じなのです。ぶっちゃけ本人はセックスしたいと思ってないんです。

 佐藤優(AV女優の佐藤優ではなく、元外交官の佐藤優です)の本に書いてあったことですが、ロシアでは、夫が妻と週に10回(うろ覚え)以上セックスしなければ、愛情の不足として離婚させられる場合があるそうなのです。週に10回とか、考えるだけで「うへえ」という感じです。そもそも、僕が上の友人の例に戸惑うのも、女性の側が、愛情表現としてセックスをそこまで重要視するという文化が、我々にはあまりないからだと思います。

 こんな人もいるくらいです。
 http://anond.hatelabo.jp/20080723024921
 ただもちろん、こういう人が世界的にいるのか、日本に多いのか、僕にはわかりません。現代に特有の感覚なのか、普遍的にあるものなのかも重要ですが今の僕にはわかりません。しかし、こういうことは言えるのではないでしょうか。

・ 女はセックスに消極的だが、男が性欲処理のために必要とする場合
・ 男はセックスに消極的だが、女が愛情表現として必要とする場合

というふたつの、相反するパターンがある、ということです。もっといろいろあるかもしれませんが、シンプリフィケイションのためにふたつだけにしておきます。

寝室を離れて

 さて、話がずれましたが、そもそものテーマである「『いっしょに寝る』がセックスを表象する」ことについて改めて考えてみると、両者はこれからますます切り離されていくんじゃないか、という感じがします。いっしょに寝るということとセックスすることということをいちいち結びつけて考えると、上のようなすれ違いが生じ、面倒くさいことになります。ヨーロッパなんかだと、かなり過激なパンクバンドがライブのステージ上で、演奏中に衆人環視の中セックスする、あるいは戦争反対のデモの一環として路上でセックスする、なんてこともあって、寝ることと切り離されたセックス、愛情とも契約とも切り離されたセックスがどんどん成立する、という流れがあるのかもしれない、なんてことを思ったりしています。

結論

 とにかく、中途覚醒がめんどいので、だれか僕といっしょに寝ましょう!