傷つくのが怖いから

 松山市にやってきた。漱石の『坊っちゃん』の舞台として有名な街。正岡子規が街に根付いていて、いたるところに句が見られる。「坊ちゃん電車」なるものが走っているらしく、それも明日の楽しみ。

 さて、明日この街で、寺山修司の実験精神を引き継ぐ劇団、万有引力による市街劇『人力飛行機ソロモン』が展開される。この演劇のチケットを出発前に入手したのだが、そこに記されているのは会場とか開演時刻などではなく、「本券と引換えに開催場所の詳細が書かれた地図やお面をお渡しします。」の一文。

 つまり、このチケットは劇が行われている場所で提示するわけではなく、むしろ「劇が行われている場所を知るために」必要なのである。そしてお面を渡されるというのは、「観客であるな、参加者たれ」というメッセージであろう。面をかぶって、虚構的存在の仲間入りをせよ、ということだろうか。想像が膨らむ。


 『寺山修司演劇論集』(国文社)の「原理篇」では、演劇における、観客への暴力の問題が語られていた。

 僕たちは、小説や映画の観客であるとき、絶対的に無力な観客であることを要求される。僕たちがどんなに声を大にして訴えても、それに応じて小説や映画の内容が変わってくれるということはない。書かれた文字に対して僕たちは、なにも為すすべがない。映画はスクリーンにおいて、あれほどリアルに世界を再現しながら、その再現された世界に観客が立ち入ることを絶対に許しはしない。

 小説や映画には「虚構」と「現実」の間に、はっきりとした境界線があって、両者の間を越えて人物が行き来するということは、おおよそ不可能に近いのである。

 寺山修司は『邪宗門』他の演劇において、「上海中の小説から『私』という文字を鋏で切り取ってしまったら、主人公を失った小説の登場人物たちが大騒ぎしている」といって、小説のそのような性格を揶揄した。

 演劇においては、この両者の境界線は薄くて脆いものになる。ステージという虚構のための空間が用意されているものの、そこには、物理的な意味で観客の侵入、つまり「現実」の進入を妨げるものなど何もないのだ。逆に演じる側が観客に対して働きかけるということも、いくらでも可能である。そこでは、演じる側と観る側の「相互作用」を発生させることができるはずなのだ。

わたしたちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることはできない。あとの半分は観客が作るのだ。

寺山修司演劇論集』pp33-4

 と、寺山が書いているとおりだ。

 ただ、当然といえば当然だろうけど、僕が何度か経験した観劇のうちでも、そのような相互作用性が実現した演劇というのは存在しなかった。

 観客というのは、演劇の世界における虚構に、自分は参加しなくても良いという安心感のために、観客席に座っている。それが観客の本来の姿である。僕たちはそこで、演劇の世界に入り込んでいって演劇を自分の都合で改変する勇気を持ち得ない。寺山が去って20年、観客との相互作用を前提とした演劇は、残念ながら失敗した試みのように考えられているようであって、相変わらず演劇の鑑賞と映画の鑑賞の間に大きな差異を見出すことは難しい。寺山の台本に基づいて劇を上演している劇団であっても、かつての天井桟敷のように、観客席に向かって暴力的に闖入する、ということはできなくなっている。それはおそらく、時代的なものがいちばん大きな原因だろう。

 演劇の観客は、とにかく劇中の出来事に対して無関心であることを欲する。演劇における境界の薄さは、現実と虚構の距離感をむしろ際立たせるばかりであるかのように思える。 


 寺山の試みは結局、時代の要求にまったくそぐわないものであったのだろうか?

 このことは僕たちが他者とコミュニケーションをするにあたって、もっとも難しいことを浮き彫りにしてくれているようにも思える。演劇における虚構と現実の距離感の問題は、そのまま現実世界における、自己と他者の距離感の問題に置き換えられるのではないだろうか。虚構に立ち入ることの怖さは、そのまま他者の心に立ち入ることの恐怖につながっている。そして「ぜひとも立ち入りなさい」と言ってくれる虚構が稀であるのと同様に、「私の心に立ち入りなさい」と言ってくれる他者も稀である。

 市街劇は「ぜひとも立ち入りなさい」と観客に呼びかけるその稀な例であり、それは他者の心にどう立ち入るか、という問題とも深くかかわってくるはずなのだ。僕たちが生きる時代においては、電車の中で隣り合った他者との間で繰り広げられる「演劇」など、とても期待できそうにない。他者に対していかに無関心であり続けられるかということを、課題にされてしまったかのようだ。その恩恵を僕たちは十分に受けているといえるだろう。時を経るごとに、この慣習は深く根付いていっている感じがする。

 寺山の実験は、空気的な事情のために、年を経るごとに実行が難しくなってきているが、難しくなってくればくるほど、実行する意義があるというものだ。「他者の闖入」がないという前提のもとに組み立てられた現代の常識が、いかに切り崩されるか――明日はその一例を見られることを強く期待するばかりだ。