檸檬を片手に、町へ出よう!

http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20081204/1228353389

 コトリコ先生の上の記事を読んで、ひとりの男を思い出した。梶井基次郎である。19歳で肺結核にかかり、31歳で死んださびしい男。『檸檬』を実話と信じるならば、たった一個のレモンによって、世界を一変させてしまった男。先生は「いつかは誰かに見つけてもらえるという期待感が必要」と言った。梶井基次郎の期待とは、こうだ。

変にくすぐったい気持が街の上の私をほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾をしかけてきた奇妙な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発するのだったらどんなにおもしろいだろう。
檸檬城のある町にて』(角川文庫)p12

 基次郎さん、これを書いたとき今の僕とほとんど同じ歳だった人よ。それでいて病のためにあすとも知れぬ日々を送っていた人よ。あなたは、たった一個のレモンによって、世界を呪うことができた男だ。これほどまで素朴に、かつ鮮やかに世界を呪うことができたとしたら、どんなにいいだろう。あの小さな「紡錘形の恰好」に、積もり積もった怨念をさわやかに晴らしてくれる力があるとしたら、世の中はどんなに素晴らしいだろう!

 そして僕は、丸善で偶然梶井基次郎のレモンに出会った人の幸運に思いをはせる。

 どうしてこんなところにレモンがある? と、当たり前の疑問を抱くだろう。子供がこんなうず高く積まれた本の上にレモンを置けるとは思えないし、レモンをおくことによって得をする大人がいるとも思えない。狂人の行動にしては、妙な格調高さがある。

 考えれば考えるほどに不思議であり、そして、考えれば考えるほどに、レモンは魅力的に思えてくるだろう。どこか知らない世界からやってきた、不思議なもの、かぐや姫のような、飛行石のような、神秘的な存在に思えてくるだろう。まさかそれが、設置者に「爆弾たれ」と願かけられたいたレモンだとは、夢想だにしないであろう。

 そのような感慨を、日常の中で味わえることの幸せ! 想像するだけで恍惚となってしまいそうだ。

 コトリコ先生は「僕は日常的にこういうオッサンを見ていたいですし、こういうオッサンが増えれば、科学の進歩で消えた期待みたいなものを補うことは可能です。」という。ここでいうオッサンとは、「モザイク画で描かれた立体の三輪車の上に」生身で跨って、「スチームパンク状のノブみたいなのを操作しながら、京都の道を移動している」オッサンのことである。

 このオッサンが、街行く人に与える幸せは、上のレモンが人々に与える幸せと、同じものなのではないだろうか?

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 もうひとつ、僕は、最も敬愛する寺山修司が言った、豚の話を思い出す。 

たった一匹の豚を市街に放つだけでも、そこでひき起こされるさまざまのエピソードは、十分に「劇場のなかの演劇」以上の衝撃を生み出してしまう。
寺山修司演劇論集』pp105-6

 豚を放つことによって演劇化される日常。日常の中に放たれた、小さな物語。僕たちは確かに、切実にそれを求める時代を生きているのかもしれない。今どき、物語はすべて、書物の中、スクリーンの中、劇場の中、ディスプレイの中に押し込められて、頑丈に施錠され、決して日常のなかには漏れ出していかなくなってしまったのである。

 ときどき、2ちゃんねるの人たちがマトリックスオフのようなことをやったりする。本当に面白い試みで、心から痛快な気分になった。

 あるいは、日常の中に物語を持ち込む作家として、クリスト&ジャンヌ=クロードがいる。茨城やカリフォルニアの田畑、平原に傘を置いたり、ポン・ヌフを「包んで」しまったりする彼らの芸術は、梶井基次郎のレモンに通じるところがある。
http://www.christojeanneclaude.net/index.shtml

 レモンも、豚も、映画『魔法にかけられて』の登場人物のように、物語の世界からひょっこり現実の世界に迷い込んでしまった者たちなのではないか。  

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 このようなことを考えながら、僕はあの、加藤智大という男が犯した殺人のことが、本当に残念に思われてならない。

 無差別殺人なんかしなくたって、たった一個のレモンによって世界を呪うことができたのに。たった一個のレモンを、本来あらざるべき場所において、「いつかは誰かに見つけてもらえるという期待感」トラックバック元)を抱くことによって、あの絶望的な病人、梶井基次郎でさえ、愉快な気分になることができたのに。

 たった一匹の豚を街に放つことによって、世の中を混乱させて、心から愉快な気分になることができたのに。

 それだけでお前は、お前の望んでいたもの、現実でもネットでも無視され続けたお前が、心から欲しがっていたものを手に入れることができたのに。

 なんでお前は、よりによって殺人なんて犯してしまったんだ。

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 さあ、書を捨てよ、そしてレモンを持って町へ出よう!