暗黒舞踏と音楽

 暗黒舞踏と音楽、ということについて、どのような考察が今までになされてきたのか、全く知らない。だから個人的な直感で、「あの組合わせは良かった」というようなことを、恣意的に述べていきたいと思う。

 暗黒舞踏にはどんな音楽が似合うだろうか。どんな音楽でも合わせられる可能性がある。ほぼ無音、ということもある。

 風の音や虫の鳴き声など、日本の土俗的な音でもいいが、安直な感じは否めない。いちばん多いのは、やはり現代の実験音楽なのだろうか。ロックやボサノバも合うし、もちろんクラシックもよく合う。ヒップホップも合いそうだが今のところ実例に遭遇していない。

 今年の7月に見た正朔×イシデタクヤの「剥製の初夜」という公演では、ラストにビートルズの「オー・ダーリン」が使われていて、すごく印象的だった。

 しかし、僕が最強の組合わせだと思うのは、暗黒舞踏カトリックのミサ曲の組合わせである。

 六年ほど合唱音楽に親しんだ個人的な経験から、カトリックの宗教曲に親しみを覚えている。特にウィリアム・バードやパレストリーナなど、ルネサンス期の作曲家、さらに時代をさかのぼってグレゴリオ聖歌などは、どこかキリスト教が土臭かったころの雰囲気が残されているのがいい。2年前の夏、スペインのバスク地方フランシスコ・ザビエルの出身地)に演奏旅行に行ったが、訪れた教会の呪術的なまでの土臭さが強く印象に残っている。

 その土臭さは、暗黒舞踏の世界観が強調する「土の上の人間」ということに、よく通じている。初期のキリスト教は、ローマ帝国からの迫害を逃れて、カタコンベという地下の礼拝堂に潜り込んで信仰を守った、地下の宗教——つまり、アングラ宗教だったわけだ。

 暗黒舞踏の性格として重要なことは、なによりもそれが儀礼的な呪術であるということだろう。これは寺山修司が「演劇とは呪術である」と言ったことにも関連しており、決して「鑑賞のためのパフォーマンス」ではない、ということだ。鑑賞のためではないパフォーマンス、ということについては、ミサをはじめとするあらゆる宗教的儀式に共通している。

 ミサ曲は地下から天上を志向する。暗黒舞踏は地上から地下を志向する。まるで上の歯と下の歯の関係のようである。両者が噛み合い、そのコントラストは至高の美しさを生むのである。

 今年の5月、寺山修司記念館を訪れるために青森に行ったが、そのついでに立ち寄った青森県立美術館にて偶然、雪雄子さんという舞踏家のパフォーマンスを観る機会に恵まれた。そのときの音楽が、おそらくウィーン少年合唱団による、カトリックのミサ曲だったのである。

 一方は地下を目指し、一方は天を目指すものの奇跡的な融合。その神秘的な呪術性。異端のために歌ってしまったことによる後悔。異端のために歌わせたことによる陶酔。

 暗黒舞踏には、なんといってもミサ曲がよく似合う。