りんごはなにもいわないけれど

 椎名林檎10周年記念ライブ、(生)林檎博'08に行ってきた。さいたまスーパーアリーナである。

 いち林檎ファンとして、素直に感動した。気がついたら絶叫してた。

 僕は普段、ライブというものをバカにしているというか、あまり積極的に足を運ばないタチなんだけれども、今回は本当にライブでしか味わえない感動があるということを思い知った。椎名林檎は、一挙手一投足から息遣いまで、ふるまいのすべてがアーティストとして完成している人なので、マイクやモニターから伝わってくるそれにいちいち感嘆せざるをえないのである。本当に美しい人なのだと思った。

 その音楽は、完璧に整えられたコラージュだ。縦横無尽の引用。地下から天上までを網羅した、膨大な引用。アングラ音楽としてのジャズから、天上志向のモーツアルトまで、ひとつに溶け合って椎名林檎のための音楽に変化している。

 椎名林檎の音楽は地下から天上までを突き抜けることによってできあがる。突き抜けるどころか縦横無尽に動き回っている。

 椎名林檎の音楽はつくっては破壊する音楽だ。自分でつくった調和を次の瞬間自分で破壊してしまう。完璧な調和のうちに、常に「外部からの侵入」を思わせるギターやパーカッションの轟音、あるいは林檎自身の叫び声が突き刺さる。安定を目指しながらも、常に安定を否定し続けなければならないアンビバレンスがそこにある。

 椎名林檎の媚態を帯びた歌声は、いつも次の瞬間、プリミティヴな絶叫に早変わりする。ハリウッド映画のセットと同じで、つくられたものは一瞬のうちに制作者自身の手によって破壊されなければならないのだ。

 椎名林檎の10年はJ-POP界を巣食う「良い子ちゃん」たちに牙をむく10年間だった。自ら「良い子ちゃん」の面影を演出してみせて次の瞬間それをぶっ壊すのだった。

 椎名林檎は、現実を手なずけながら、いつでも現実をかみ殺す牙を磨いている。それはまさしく、アングラ演劇が目指した芸術性である。音楽はもちろん、美術・言語における椎名林檎の世界観・センスが、アングラ演劇と共通していることは、今さら指摘するまでもない。

 椎名林檎と同時代を生き、そして彼女の記念すべき場に立ち会うことができたのは、僕の人生を意味づける僕の誇りである。