いちばんすごい市街劇

 いちばんすごい市街劇はなにか、という質問がもしあったとしたら、ビートルズが1969年に行った、ループトップ・コンサートである、と答えるだろう。

 1966年のサンフランシスコ公演を最後に、いっさいのライブ活動を放棄したビートルズが、解散直前に行った、最後のライブである。

 1969年1月30日、彼らの設立した会社アップルのビルの屋上で、けたたましい爆音が鳴り響いた。

 ループトップ・コンサートは、いっさいの予告なしに行われた。
 ループトップ・コンサートは、おだやかなオフィス街に突然爆音をもたらした闖入者であった。
 ループトップ・コンサートは、権力の介入により中断を余儀なくされた。
 ループトップ・コンサートに、台本はなかった。
 ループトップ・コンサートは、少数の幸運なものが「偶然」のために目撃した。
 ループトップ・コンサートは、伝説となった。

 これだけ華やかに市街劇の要素を備えているものは、ほかにもうないのではないか。

 追記:上記「権力の介入」について

 中山康樹ビートルズの謎』(講談社現代新書)によると、「警察出動は"やらせ"だった?」という話があるようだ。いわく、

……1台しかなかったはずのカメラは、騒然とする外套の様子を撮影しつつ通行人にインタヴューし、市民から通報を受けてアップル・オフィスに向かう警官を撮影する。しかも到着する警官を待ち構えて撮影するのではなく、警官の背後から撮影している。つまりカメラは警官と一緒にアップルに乗り込む。
(中略)
警官が何時何分にアップルに到着するという事前の連絡がなければ、前述のような連続した場面を撮影することはむずかしい。
pp216-7

ということで、以下、さらに様々な可能性を考慮した考察が続く。

 となると、さらに話はおもしろいことになってくる。たとえば市街劇の元祖・寺山修司は、「何が真実で何が虚構かわからない」状態を意図的に作り出し、本物の警官が演劇を制しに入っても、観客が「あの警察官、迫真の演技だな」と思わせるように仕向けたという。(もしかするとその警官は本当に演技者で、「本物の警察官が演技者と間違われて困惑する様子」をメタ的に演じていた、という可能性もある)
 虚構と真実の意図的な混在、というのも、市街劇の重要な要素たりうるだろう。

 ただまあ、これが真だとすると、上記「台本はなかった」も崩れるので、ビートルズファンとしてはやや寂しい、というのがないでもない。

 『ビートルズの謎』はビートルズにまつわる様々な伝説の真相を検証していくという趣旨の本で、さっき買ってきたばかりでほとんど読んでないのだが、人々がどのように伝説を欲しがるか、ということがわかって大変興味深い。

檸檬を片手に、町へ出よう!

http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20081204/1228353389

 コトリコ先生の上の記事を読んで、ひとりの男を思い出した。梶井基次郎である。19歳で肺結核にかかり、31歳で死んださびしい男。『檸檬』を実話と信じるならば、たった一個のレモンによって、世界を一変させてしまった男。先生は「いつかは誰かに見つけてもらえるという期待感が必要」と言った。梶井基次郎の期待とは、こうだ。

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コラージュ人間

 「氾濫するイメージ ― 反芸術以後の印刷メディアと美術」展を観に、うらわ美術館まで行ってきた。赤瀬川原平粟津潔宇野亜喜良木村恒久タイガー立石横尾忠則中村宏つげ義春の作品を展示。蜷川実花展と迷ったんだが、混雑がひどいということでこちらにした。客は僕のほかに4、5人。蜷川さんの方はまた平日にでも行くとする。

 宇野亜喜良横尾忠則の作品はほとんど見たことあるものだったが、今日木村恒久という作家のことを知れたのは本当に大きかった。主に建築写真のフォト・モンタージュをやる人。原爆投下直後の広島の焼け野原の写真に、商業看板を並べるというパンチの利いた風刺には恐れ入った。

 コラージュに魅かれる感性というものは、どこから生まれるんだろうとふと思う。それは、東浩紀がいう「データベース消費」に近いものがあるのだろうか? だが、それがまったく知らないもの同士だったとしても、ただ異質のものが組み合わさってるというだけでおもしろいと思えるときが、しょっちゅう訪れるのである。

 はじめて寺山修司の文章に触れたとき、そこは知らない固有名詞の海だった。だけどもその海で水浴びすることを、僕は心地よく思った。寺山修司は、映像作品は言うに及ばず、その文章ですらモンタージュによってつくる人だったのである。

 川本三郎が、寺山修司の文章を評して

 普通、引用は、自分の文章の強化に行うものだが、寺山の場合は少し違う。引用した文章、あるいはイメージが、ひとつの自立した世界を持っている。ひとつの物語になっている。寺山は、いわば、引用によって、「告白」の湿っぽさを避けるだけでなく、引用した言葉やイメージの背後に身を隠してゆく。
 引用は、いわば"隠れ蓑"である。寺山は、引用から引用へと、まるで"八艘飛び"のように伝ってゆき、「私」を消してゆく。引用のコラージュのなかに「私」を消してゆく。ついには、自分自身が断片を寄せ集めたコラージュのように。
『私という謎』(講談社文芸文庫)p259

 と書き、さらに

おそらく寺山修司にとっては、ほんとうの「私」などあり得なかったのだろう。次から次へと、変装していくうちに、ほんとうの自分なるものが消えてしまう。私の無化こそが、寺山修司の望むところである。

 と書いたのを読んだとき、僕はようやく自分の病気の原因を言い当てられたような思いがした。これによって僕は、寺山と自分が似た者同士であることを確信するにいたったのだった。本当の自分、一貫した自己などというものを鼻から信じることができない。そのため自分自身を語るときに膨大に引用することによって、「自分」などというものを埋没させてしまう。

 僕の手帳は、読んだ本の引用、観た映画、読んだ本のタイトルによって埋め尽くされている。それらは、スケジュールよりもはるかに重要で、しかも常に携帯していなければ気がすまないものである。ちなみに、糸井重里さん企画のほぼ日手帳である。

 僕と寺山の最大の共通点は、東北の田舎を、わけもわからぬまま大都会東京に接合してしまったことだろう。映画『田園に死す』『書を捨てよ町へ出よう』を観ると、その接合が露骨に行われている。

りんごはなにもいわないけれど

 椎名林檎10周年記念ライブ、(生)林檎博'08に行ってきた。さいたまスーパーアリーナである。

 いち林檎ファンとして、素直に感動した。気がついたら絶叫してた。

 僕は普段、ライブというものをバカにしているというか、あまり積極的に足を運ばないタチなんだけれども、今回は本当にライブでしか味わえない感動があるということを思い知った。椎名林檎は、一挙手一投足から息遣いまで、ふるまいのすべてがアーティストとして完成している人なので、マイクやモニターから伝わってくるそれにいちいち感嘆せざるをえないのである。本当に美しい人なのだと思った。

 その音楽は、完璧に整えられたコラージュだ。縦横無尽の引用。地下から天上までを網羅した、膨大な引用。アングラ音楽としてのジャズから、天上志向のモーツアルトまで、ひとつに溶け合って椎名林檎のための音楽に変化している。

 椎名林檎の音楽は地下から天上までを突き抜けることによってできあがる。突き抜けるどころか縦横無尽に動き回っている。

 椎名林檎の音楽はつくっては破壊する音楽だ。自分でつくった調和を次の瞬間自分で破壊してしまう。完璧な調和のうちに、常に「外部からの侵入」を思わせるギターやパーカッションの轟音、あるいは林檎自身の叫び声が突き刺さる。安定を目指しながらも、常に安定を否定し続けなければならないアンビバレンスがそこにある。

 椎名林檎の媚態を帯びた歌声は、いつも次の瞬間、プリミティヴな絶叫に早変わりする。ハリウッド映画のセットと同じで、つくられたものは一瞬のうちに制作者自身の手によって破壊されなければならないのだ。

 椎名林檎の10年はJ-POP界を巣食う「良い子ちゃん」たちに牙をむく10年間だった。自ら「良い子ちゃん」の面影を演出してみせて次の瞬間それをぶっ壊すのだった。

 椎名林檎は、現実を手なずけながら、いつでも現実をかみ殺す牙を磨いている。それはまさしく、アングラ演劇が目指した芸術性である。音楽はもちろん、美術・言語における椎名林檎の世界観・センスが、アングラ演劇と共通していることは、今さら指摘するまでもない。

 椎名林檎と同時代を生き、そして彼女の記念すべき場に立ち会うことができたのは、僕の人生を意味づける僕の誇りである。

暗黒舞踏と音楽

 暗黒舞踏と音楽、ということについて、どのような考察が今までになされてきたのか、全く知らない。だから個人的な直感で、「あの組合わせは良かった」というようなことを、恣意的に述べていきたいと思う。

 暗黒舞踏にはどんな音楽が似合うだろうか。どんな音楽でも合わせられる可能性がある。ほぼ無音、ということもある。

 風の音や虫の鳴き声など、日本の土俗的な音でもいいが、安直な感じは否めない。いちばん多いのは、やはり現代の実験音楽なのだろうか。ロックやボサノバも合うし、もちろんクラシックもよく合う。ヒップホップも合いそうだが今のところ実例に遭遇していない。

 今年の7月に見た正朔×イシデタクヤの「剥製の初夜」という公演では、ラストにビートルズの「オー・ダーリン」が使われていて、すごく印象的だった。

 しかし、僕が最強の組合わせだと思うのは、暗黒舞踏カトリックのミサ曲の組合わせである。

 六年ほど合唱音楽に親しんだ個人的な経験から、カトリックの宗教曲に親しみを覚えている。特にウィリアム・バードやパレストリーナなど、ルネサンス期の作曲家、さらに時代をさかのぼってグレゴリオ聖歌などは、どこかキリスト教が土臭かったころの雰囲気が残されているのがいい。2年前の夏、スペインのバスク地方フランシスコ・ザビエルの出身地)に演奏旅行に行ったが、訪れた教会の呪術的なまでの土臭さが強く印象に残っている。

 その土臭さは、暗黒舞踏の世界観が強調する「土の上の人間」ということに、よく通じている。初期のキリスト教は、ローマ帝国からの迫害を逃れて、カタコンベという地下の礼拝堂に潜り込んで信仰を守った、地下の宗教——つまり、アングラ宗教だったわけだ。

 暗黒舞踏の性格として重要なことは、なによりもそれが儀礼的な呪術であるということだろう。これは寺山修司が「演劇とは呪術である」と言ったことにも関連しており、決して「鑑賞のためのパフォーマンス」ではない、ということだ。鑑賞のためではないパフォーマンス、ということについては、ミサをはじめとするあらゆる宗教的儀式に共通している。

 ミサ曲は地下から天上を志向する。暗黒舞踏は地上から地下を志向する。まるで上の歯と下の歯の関係のようである。両者が噛み合い、そのコントラストは至高の美しさを生むのである。

 今年の5月、寺山修司記念館を訪れるために青森に行ったが、そのついでに立ち寄った青森県立美術館にて偶然、雪雄子さんという舞踏家のパフォーマンスを観る機会に恵まれた。そのときの音楽が、おそらくウィーン少年合唱団による、カトリックのミサ曲だったのである。

 一方は地下を目指し、一方は天を目指すものの奇跡的な融合。その神秘的な呪術性。異端のために歌ってしまったことによる後悔。異端のために歌わせたことによる陶酔。

 暗黒舞踏には、なんといってもミサ曲がよく似合う。

やっぱり傷つくのが怖い

 『人力飛行機ソロモン 松山篇』に参加した。

 僕は幸せだった。幸せすぎて涙が出てきた。はるばる西の国にやってきて、こんなイベントに参加することができたのだ。決して百パーセントの満足ではない。でも、ここまでの過程に思いを馳せると、本当に感慨深いものがある。

 今日、マンキツにて目覚めて、午前中はサンマルクで祖母に手紙を書いていた。留年することを納得させるための手紙である。東京じゃ書けなかった。どうしても書けなかった。その手紙を書くのもこの旅行の目的のひとつだったのである。2時間かけて手紙は完成した。便箋に十枚ほど書いた。ローソンにて投函。ここから福島まではだいぶあるが、いつごろ着くのだろう。

 11時半ごろ、集合場所の松山市役所前。この演劇では、チケットを渡して会場に入るのではない。チケットと引き換えに、地図とお面を渡されるのである。

 何のお面か? 東京にいたときからずっと気になっていたが正解は、正岡子規のお面だった。地元松山にゆかりの人、正岡子規である。

 劇が始まってしばらくして、顔を白塗りにして、コスプレ衣装を貸してくれるサービスにめぐり合い、千載一遇のチャンスとばかりに変装する。

(ここまで書いて気づいた。東京の自宅に戻らなければ、デジカメで撮った写真をアップすることができないではないか。詳しいことは帰ってから改めて記すことにする。)
 
 「俳優と観客の相互作用」が、この劇において、どこまで実現されていたか、僕にはよくわからない。けれども僕は今回、「観客席に座っているだけでは、演劇はやってこない」ということを身をもって知らされたし、「演劇は待つものではなくて、自分から探しにいくもの」であるという劇団のメッセージは十分に受け取ったつもりである。

 また、これも帰ってから詳述するが、今回、さながら逆ミンストレル・ショーのごとく顔を白塗りにしてみて思い知ったのは、「みんなと違うことの怖さ」である。

 大勢の通行人に交じって、ひとり(実際にはひとりではないが)白塗りの顔と奇妙なコスプレをしていることの、途方もない疎外感。黒人が少数で白人と交じるときの恐怖って、こんな感じだったのではないかと思うのだ。映画『マルコムX』の序盤において、マルコムが危険をおかしてまで黒人パーマを矯正して白人と同じ髪型になりたがった気持ちが、よくわかったような気がする。

 大急ぎで、メイクをしてくれた店に戻って白塗りを落とした。

 つまり、僕は現実において虚構の登場人物たる度胸を持たない男である。

 うすうすわかってはいたけど、改めて思い知らされるとちょっとばかりショックである。

 さて、今夜も、マンキツにて朝までゆっくりすることにする。